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志賀島万葉歌碑めぐり [ドライブ・観光地]

子供の頃から、志賀島へ行くことが多く、車の免許を取ってからも、友人や彼女と良く、ドライブコースとして、大人になってからも訪れています。
今回は、志賀島に「万葉歌碑」があることが分かり、調べてみると、島内にはいたるところに9碑、西戸崎に1碑(7号歌碑)があることが分かり、まだ、知らぬ志賀島の歴史、観光名所を踏まえ、「万葉歌碑めぐり」をして見ました。
っといっても、以前、訪れた時に撮ってる歌碑もあるので、残りの歌碑を撮って来ました。
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万葉歌碑めぐりは、志賀島橋を渡り、1号歌碑がある志賀海神社から、4号→10号→5号→2号→6号→9号→3号→8号、そして、西戸崎にある7号碑をめぐるのが一番順序として良さそうです。
今回は、西戸崎にある7号歌碑は、近くまで行ったのですが、どうも志賀中学校の敷地内にあるそうで、許可なく入っては?と思い、撮らないまま帰って来ました。
また、近くへ訪れた時でも撮ってこようと思います。

志賀海神社にある、
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万葉歌碑 (志賀島第一号歌碑)です。
 
神社の石段を登り、参道の途中左手にありますので、
 
よく見て歩いてください。
 
志賀海神社神社の紹介。
http://masat5.blog.so-net.ne.jp/2012-08-13
 
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ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも
            われは忘れじ志賀の皇神(巻7・1230)
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万葉歌碑 (志賀島第一号歌碑)

「航海の難所である鐘の岬を過ぎたとしても、わたしは海路の無事をお願いしたこの志賀の神様を忘れません。」という意味の歌です。

ちはやぶるとは狂暴なとか勢いが強い意味とされ、鐘の岬は現在の宗像市鐘崎の織幡神社が鎮座する岬で、対峙する地島との間の瀬戸は航海の難所でした。志賀島から船出して奈良の都へ向かう官人が詠んだものです。
 

万葉歌碑 (志賀島第四号歌碑)は、島の中で最も高い標高165mの山頂の「潮見公園」にあります。
この公園には、360℃見渡すことのできる展望台があり、博多湾を挟んで福岡市内、百道の福岡タワー、能古島、香椎方面、相島などが一望でき夜景も望めます。
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潮見公園の展望台です。
 
その右側に、
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万葉歌碑 (志賀島第四号歌碑)があります。
 
潮見公園の展望台の紹介です。
 
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志賀の浦に漁する海人
                 明けくれば浦み漕ぐらしかじの音きこゆ
                                (巻15・3664)
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万葉歌碑 (志賀島第四号歌碑)

「博多湾の志賀の浦で漁をする人々が夜が明けてくると海岸沿いに船を漕いで家に帰っている。そのかじの音が聞こえる。」という意味の歌です。
天平8年(736)に新羅の国へ派遣される使節一行が詠んだ歌の一首で、奈良の都では味わえない海辺の旅情とともに望郷の念を表してます。
 
 潮見公園の駐車場には、
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車上ねらい多発!!と書かれた看板があります。
 
気をつけてください!!!
 
車から離れる時は、貴重品など持って行くようにしましょう。
 
この日は、警備員が回ってました。
 

万葉歌碑 (志賀島第10号歌碑)は、ちょっと分かりづらい場所にあります。
休暇村志賀島の向かい側にある下馬ヶ浜海水浴場へ向かい、右に見える沖津宮へ向かって行くと、勝馬小の裏にある小さな山、中津宮古墳の裏の入口付近にあります。
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この写真に写ってる山?の左付近にあります。
 
下馬ヶ浜海水浴場の紹介です。
 
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万葉歌碑 (志賀島第10号歌碑)です。
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志賀の海人は
藻刈り塩焼き
いとまなみ
髪梳の小櫛
取りも見なくに(巻3・278)
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万葉歌碑 (志賀島第10号歌碑)

志賀の海人は海藻を刈ったり塩を焼いたりして暇がないので、髪をすく櫛を手にとっても見ないことよ。
毎日はげしい生業にたずさわって働き暮らす志賀の海人のなりふりを構う暇もない身の上を思いやった歌で、作者は石川少朗(君子)である。
綿津見の神への信仰をよりどころとして、古代の生きた島人の姿はこのような歌に詠われたが、特に、志賀というこの島の名を詠み入れた歌は二十首をこえており、まさに志賀島は「万葉の島」というふさわしいところである。なお、碑後のタブの木の茂みにおおわれた森は志賀海神社の中津宮であり、浅瀬の向こうの小島の上の社は中津宮である。
 
 
万葉歌碑 (志賀島第五号歌碑)・荒雄の碑は、志賀島北端部の国民休暇村内の左側に建てられています。
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万葉歌碑 (志賀島第五号歌碑)・荒雄の碑
 
志賀島にある万葉歌碑、10碑のうち、
 
3碑は、荒雄についての歌だそうで、
 
この第五歌碑には、隣接して「荒雄の碑」が建立されてるそうです。
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荒尾の碑です。
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「大船に小船引きそへかづくとも
               志賀の荒雄にかづきあはめやも」(万葉集巻16・3869)
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万葉歌碑 (志賀島第五号歌碑)・荒雄の碑

荒雄は志賀の白水朗(海人)であり、奈良時代に、大宰府が対馬に食料を運ぶための船長となった、親友の宗形部津麻呂にかわって出航したが、その途中で暴風雨のため難破し、帰らぬ人となってしまった。
万葉集の巻16には不慮の死を遂げた荒雄をしのんで、妻子が詠んだと伝えられる十首の歌が載せられており、この歌はそのうちの一つである。「たとえ大小の船を出して、多くの人が海中に潜ったとしても、志賀の荒雄に潜り会うことができるだろうか。会えはしないのだ。」という意味で、夫をなくした妻子の切々とした悲しみを詠んだものである。
 
 
万葉歌碑 (志賀島第二号歌碑)は、志賀島の北端国民休暇村の南側に広がる、玄界灘を望む丘の上に建てられています。

ちょっと、逆行気味で真っ暗ですが、ご愛嬌で・・・m(_ _)m。
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万葉歌碑 (志賀島第二号歌碑)
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志賀の山いたくな伐りそ荒雄らが
            よすがの山と見つつ偲はむ(巻16・3862)
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万葉歌碑 (志賀島第二号歌碑)

「志賀の山の木をあまり伐採しないでおくれ。荒雄のゆかりの山として見ながら彼を偲ぼう。」という意味の歌です。
長崎県の福江島から対馬へ向かう航海中に不慮の海難事故で帰らぬ人となった志賀島の船頭、荒雄を悲しむ妻子の立場にたって、山上憶良が詠んだ十首の歌の1首です。
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傍には、志賀島園地の案内板がありました。
 
歌碑からの眺めも良かったです。
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下に見える赤い屋根の建物はレストハウスで、
 
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その奥に見える小島には、「沖津宮」があります。
 
が!
 
 写真を見てもらうと分かりますが、
 
陸続きになっていません。
 
沖津宮へ行くには、手前に浅瀬があって、
 
大潮の日だと、潮が引いて渡ることができます。
 
万葉歌碑(志賀島第六号歌碑)は、旧蒙古塚参拝登口の斜め前、道路を隔てた海側に大きな岩が歌碑です。


蒙古塚(蒙古軍供養塔)
http://masat5.blog.so-net.ne.jp/2012-08-04

旧蒙古塚古跡地
http://masat5.blog.so-net.ne.jp/2012-08-04-1
の紹介です。
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「志賀のあまの塩やく煙風をいたみ
               立ちは昇らず山にたなびく」(巻7・1246)
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万葉歌碑(志賀島第六号歌碑)
 
 「志賀の海人の藻塩を焼く煙は、風が強いため立ち昇らないで、横にたなびいている。」という意味である。
これは藻塩焼きというかつて行われていた製塩の風景を詠んだもので、海藻を刈り集め、焼いた後の灰を海水に混ぜ、その上澄みを煮詰めて塩を得るものです。
当時の志賀の自然情景がそのままに表現されています。
 
そこからの景色です。
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右側から降りることもできます。
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万葉歌碑 (志賀島第9号歌碑)は、志賀島南西部の棚ヶ浜海岸に建てられています。
幸福の科学布教所の裏側辺りです。
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万葉歌碑 (志賀島第9号歌碑)です。
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沖つ鳥鴨とふ船は也良の崎
            たみて漕ぎ来と聞えこぬかも(巻16・3867)
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万葉歌碑 (志賀島第9号歌碑)

「筑前の国の志賀の白水郎の歌十首」中の一首。
神亀(724~729)のころ大宰府から対馬に糧を送るよう命じられた宗像郡の津麿に代わって志賀の荒雄は、肥前の国の美祢良久(福江島三井楽)から対馬に船出したが、暴風雨に遭って海没した。
それから8年、荒雄の妻子はなおその生還を念じてこれらの歌を作ったという。また一説では筑前の国守山上憶良の作であるとも伝えられている。

荒尾の乗った鴨という船が、也良の崎をまわって漕いで来るよと知らせが来たならなあ。
鴨は荒雄の船の名、也良の崎は能古の島の北端で、そのあたりを漕いで来る荒雄生還の吉報を期待する家人の切ない心を詠んだ歌である。
(なお、也良の崎には「沖つ島鴨とふ船の還り来ば也良の崎守早ぐ告げこそ」の歌碑がある。
 

万葉歌碑 (志賀島第8号歌碑)は、志賀小学校内の校舎の前に建てられています。
なので、学校関係者の方に許可を貰って、撮って来ました。
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 万葉歌碑 (志賀島第8号歌碑)です。
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志賀の浦にいざりする海人
                  家人の待ちこふらむに明しつる魚(巻15・3653)
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万葉歌碑 (志賀島第8号歌碑)


この歌は、天平8年(736年)に遣新羅使の一行が筑紫館に泊まったとき、都で一行の帰りを待ちわびているであろう家族の心を思い詠んだ歌である。
現代語に訳してみると「博多湾で漁をしている漁師は家族がしきりに帰りを待っているであろうに、仕事はいえ夜通し魚を釣っていることよ」という意味である。
なお、この歌は志賀中学校の歌と一連のものである。
 
 
万葉歌碑 (志賀島第三号歌碑)は、志賀島南側の志賀島漁港西側に建てられています。
簡単に見つかると思って来たのですが、これが中々見つからなかった。
予めGoogleの地図で調べて、公園内にあることが分かったのですが、現地に訪れると、雑草が伸び放題で、これが公園なのか!と思う場所でした。
結局、地元の方に聞いて、場所が分かりました。
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こんな感じで雑草が伸び放題で、
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分からなかった。
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この写真の真ん中、草むらを進むとありました。
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万葉歌碑 (志賀島第三号歌碑)
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「志賀の白水郎の釣りし燭せるいさり火乃
               ほのかに妹を見無よしもか裳」(巻12・3170)
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万葉歌碑 (志賀島第三号歌碑)

これは、志賀島の白水郎(海人)が灯している漁火のように、ほのかにでも妻を見ることができたらな、という意味の歌である。
志賀島周辺で終夜ほのかに灯る漁火を見るにつけ、都で自分の帰りを待つ恋しい妻のことを想い、耐え難い郷愁にさらされた気持ちを詠んだ歌である。
作者は不詳であるが、都からたどり着いた維新羅使人が、これからの厳しい旅程を思い、望郷の念に駆られて、詠んだ歌であろうか。万葉集の中にはこの歌のように、志賀島に暮らす海人の生活を題材とした歌も多く、我々を古代の情景に誘ってくれる。
 
残るは、万葉歌碑 (志賀島第七号歌碑)のみです。

本当は、全部集めて紹介しようと思いましたが、
 
訪れて、日が経ってしまったからです。
 
歴史に興味のある方は、
 
万葉歌碑めぐりをしてみてはいかがでしょうか?

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